【テキスト講義第12回】悟りについて

今回は悟りについてのお話です。悟りというと、なにか超人的な神秘の世界の話しのように思うかもしれませんが、本当はもっと現実的なお話なのです。私たちは誰でも悟りを目指していくことができますし、そもそも人は、悟りを得てから本当の人生のスタートをしなければならないのです。
ここで本当の悟りの意味を学び、人間的な成長を目指していってくださいね。

無心とは

せっかくですので、ここで「悟り」についても触れておきましょう。

よく、坐禅のほうでは無心ということが言われます。これは頭を空っぽにしてなにも考えないことだと勘違いされている方がいますが、そうではありません。無心というのは心が無い状態ではなく、「心がとどまることがない状態」のことを指します。この無心になるというのは意識のコントロール法です。

瞑想をしていると顕著に感じますが、私たちの心というのは次から次へとすぐになにかに心をとどめてしまいます。例えば、足が痺れてきたら心はそれっきりになってしまい、もう瞑想どころではありません。心配事を思い出してしまってもそうです。心はそれでいっぱいになります。心というのは次から次へとさまよい、執着の対象を探し歩きます。

無心であるということは、
心があれこれと思い浮かべること自体を
否定するわけではありません。

ダメなのは、
一つのことに心を
とどめてしまうことなのです。

ですので、禅宗ではよく「受け流す」という表現を使います。もし、心がなにかの対象を捉えること自体を止めたとしたら、その人は家が燃えていても気づかないでしょう。ですので、そうではなく、意識をコントロールすることによって、心を一つの対象に止めないようにするのが瞑想(特に禅)の目的の一つであると言えます。

また、これは後述する「行動原理」の章でもお話しますが、無心というのは心をとどめないことであり、心をとどめないこととは、作為を持たないということでもあります。「あれのためこれのため」という思いは心を対象に縛り付けておくことに他なりません。思い煩わず、心止めず、成そうと思わず、ただ目の前の物事に取り組めるようになるのが瞑想の究極的な目的の一側面です。

意識のコントルールが生み出す力

この無心を訓練するとどのようなことが起こるのでしょうか。

それこそ驚異的な力を発揮します。例えば、あるお坊さんは、麻酔なしで手術をして顔色一つ変えなかったというような逸話があります。そのようなことは痛みという対象に心をとどめないことによって成しえる驚異的な忍耐力です。

このような逸話は沢山あります。人間は意識をコントロールすることによって身体的な苦痛までも取り除けるようになります。(苦痛を取り除けるというよりは、苦痛にとらわれることがなくなるといった方が正しい表現でしょう)
そのように、身体的な苦痛でさえも克服できる意識のコントロール力を身につければ、精神的な苦痛を取り除くのはいとも簡単なことです。ただし、その意識のコントロール力を身につけるのは簡単ではないことは言うまでもありません。

瞑想が生み出すもう一つの力

瞑想はそのような意識のコントロール法が一つの主眼でもありますが、もう一つの眼目が、先程少しお話した「智慧」の獲得です。

現在、私たちが知っている瞑想というのはもともと、お釈迦様が生きる苦しみを取り除くために獲得された方法です。では、その苦しみというのは一体なにかというと、先程話した通り、「認識」から生じる様々な執着なわけです。

その執着を断ち切るためにはどうすればよいかというと、「認識」を断ち切ることでした。そして、認識を断ち切るためにはどうすれば良いかというと、「評価(比較)」を止めることでした。

では、最終的にこの評価を止めるとどうなるかというと、物事の境界線がなくなるのです。境界線がなくなるということは、自分と他人の境目がなくなるということです。そうすると、自分を愛しむのと同じように他人も愛しむことができるようになります。そこに慈悲心が生まれます。なので、仏教はよく慈悲の心を説きます。それは悟りの境涯だからです。

遍路に興味がある方はご存知かもしれませんが、遍路で使う菅笠には「悟故十方空」(悟るがゆえに十方は空なり)、「本来無東西」(本来東も西も無し)、「何処有南北」(何処んぞ南北あらんや)という文字が書かれていますが、それも、評価(比較)をしなければ境界線がなく、境界線がなければ東も西も存在しないという意味であり、ここで説明しているのと同じことを言っています。

この、物事の一切の評価(比較)を止め、あらゆるものの境目をなくし、自他の区別なく見ていくのが究極の智慧であり、それを実感し実地で生きていくのが「悟り」なのです。後程図説しますが、自分と他人の境目をなくすと、一心に誰かのために生きることができるようになっていきます(自己超越)。そうすると、人の問題も全て自分事(当事者意識)になっていきます。お釈迦様はもちろん、キリストやガンジーやマザーテレサといった人たちを見れば、彼らがあらゆる人たちの苦しみを全て自分事としていたのが分かります。彼らの生き方はまさにこの智慧の実践であり、それを悟りの境涯と言います。

それに加え、意識のコントロールをして身体の執着を離れることができたら、それは解脱と呼ばれます。つまり、悟りというのは智慧によって心の苦しみを取り除くことであり、加えて、高度な禅定(意識のコントロール)によって身体の苦しみまでも取り除くことができるようになった状態を解脱といいます。悟りにも段階があるということですね。ちなみに、悟りは一瞬にして起こることがありますが、高度な意識のコントロールは瞬時に獲得することはできません。

身体の執着を完全に離れられるほどの意識のコントロール力を私たちが身につけるのはなかなか難しいのですが、この「智慧」を獲得して、慈悲心に満ち、自分事の範囲を広げてゆき、人の幸せを自分の幸せとして生きていくことは誰にでも可能です。

悟りというのは超能力世界の不思議なお話ではなく、この社会を生き抜く古くからの実践的な智慧です。瞑想を志す方は最終的には「悟り」を目指して進んでいきましょう。

《 補足 》当事者意識について

「当事者意識」というのがどういうことかわかりづらいかもしれませんのでここで補足しておきます。例えば、私たちは当然、自分自身はかわいいものですので、自分を幸せにしたいと思っています。

しかし、本当に自分自身だけでよいのでしょうか? そんなことはないはずです。自分の家族や恋人や友人が苦しんでいたら、やはり自分も幸せにはなれません。

では、例えば、恋人の家族はどうでしょうか? 自分と恋人が幸せでも、恋人の家族が不幸になり、恋人が悲しんでいたら、やはり自分も幸せにはなりません。

では、恋人の会社が倒産しそうだとしたらどうでしょうか。そのせいで恋人の生活が苦しくなるとしたら、それもまた私を幸せにはしません。

そのように、「自分の幸せ」に関わっている人の範囲をどんどん広げていきます。これは大人になればなるほど自然と理解していけることですが、瞑想はその理解をもっともっと大きく広げていきます。
そうすると、自分のことはもちろん、自分の友達も、自分の友達の友達も、その人たちの家族も、その人たちが働く会社も、その会社がある社会も、というように、どんどん自分の幸せを形作る枠が大きくなっていきます。それが当事者意識です。

まとめ&ワーク

今回は悟りについてのお話でした。少し難しかったかもしれませんが、まだまだテキスト講義も始まったばかりです。先に進むほど理解は深まってきますので安心してくださいね。

ワーク

自分と他人の境界線を感じてみよう!

毎日の生活の中で、あなたと他人との境界線を感じてみてください。

自分と同じように家族にも優しくできるなら、
あなたの境界線の内側には家族も含まれます。

会社の仲間や経営者の立場も考えられるなら、
あなたの境界線の内側にはその人達も含まれます。

境界線に気づき、
どんどん境界線を大きくしていき
やがては、生きとし生けるもの全てが
自分事として受け入れられるくらいまで
境界線を広げ、
最後には無くしていってくださいね。

※そうすると、人の辛さを受けてしまうという人もいるかもしれませんが、
そもそも瞑想は、その苦しみを取り除く技法です。
苦しみに飲み込まれずに境界線を広げていく方法を学んでいるのですから、
安心して、今できる課題に取り組んでくださいね。

ワークの提出※瞑想教室生徒さん用

ワークは下記フォームから提出していただけます。
基本的に、ワークの添削は瞑想教室の生徒さんに限らせていただきますが、どなたでも本ワークをご提出いただきます。

本ワークを提出いただくと、ご自身のメールアドレスに入力内容が自動返信されます。そちらで日々の瞑想の取り組みを記録していただければと思います。また、添削はしなくても、すべてのワークには目を通させていただいておりますので、ワークのご提出を頂いていれば、こちらで学習状況を把握して、必要に応じてアドバイスさせて頂くこともあります。

ぜひ、本ワークもご活用していただき、ご自分の学習のモチベーションアップにつなげて頂ければと思います。

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